イケダリョウの日記

今年は頑張って更新していこうと思います

退屈を抱いて、自分らしさに向きあう | ジャ・ジャンクー監督『世界』

大学1年生だったころ、僕は将来への漠然とした不安にしばしば苛まれていた。当時は地元の福岡から上京したばかりで、大学の友人にもバイト先の人間関係にも恵まれ、彼女もできていた。なんなら大学進学以前からイメージしていたとおりの生活を送っていたとも言える。

焦りを感じ始めたのは周りの同級生たちが少しずつ「海外」の話をし始めたときである。「夏休みにカナダに行っていた」とか「来年はヨーロッパに留学するんだよね」とか「東南アジアへボランティアに行ってきた」とか。在学中に海外に行くプランなど考えてもいなかった僕はジワジワと焦り始めていた。大学生のうちに留学の1回や2回、もしくは何か高尚な活動に関わっていないと将来ヤバいんじゃないか?という疑問は、とはいえ留学する経済的な余裕がないことや特にやりたいこともないという現実と正面衝突することになり、ひどく当時の自分を苦しめた。

 

一体自分は何者になれるのだろうか、という不安を誰かに打ち明けることもできず、「とりあえず海外留学すればなんとかなる!」と本気で考えていた。

大学2年生になったときに幸いにもバイト先の仕事にのめり込む機会に恵まれた僕は、あれだけ思い悩んでいた「海外行くか?行くまいか?」問答のこともすっかり忘れ、4年間同じバイトを続けた末に、大学を卒業した。

 

 

中国の映画監督ジャ・ジャンクーによる『世界』という作品がある。主人公のタオは北京郊外に実在するテーマパーク「世界公園」でダンサーとして働いている。「世界公園」はインドのタージ・マハルやパリのエッフェル塔、エジプトのスフィンクスなど世界各地のモニュメントが10分の1スケールで忠実に再現されているイミテーションの空間だ。タオはというと、みんなの前では明るく気丈で、周囲からは「姐さん」と呼ばれ慕われている。どうやら彼女は「世界公園」では古参の人間らしい。交際している彼氏はいるものの、なんだか二人の関係性は不安定でお互いに心を通わせあえているのかどうかは疑問である。

 

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一つわかることは、タオが明らかに「退屈」しているということである。とりわけ「退屈だー」と本人が口にしているわけではない。ただし、言葉に出さずとも彼女は紛れもなく退屈している。仕事にも、恋愛にも、日々の生活の営みにも。「世界公園」というイミテーションワールド(というか中国)は自分をどこかへ連れ出してくれる魔法の空間ではなくて、むしろ彼女にとっては抜け出すべき牢屋のような場所なのだ。

映画の冒頭、かつて付き合っていた恋人がタオの前に現れる。そしてタオに告げる。中国を離れウランバートルに行く、と。そんなやりとりが益々彼女を追い詰めていく。

タオはどうすればよかった?

『世界』を観ると、タオは一体どうすればよかったのだろうかと考えてしまう。元彼のようにタオも思い切って外国に行ってみればよかったのか。いま付き合っている彼氏との関係を清算して次の相手を探せばよかったのか。多少強引ではあれ自分を取り巻く環境をガラリと変えてしまえば、それなりの効果は見込めそうである。しかし、それはあくまで一時的な効果しかもたらさないのではないか。環境を変えてみてもきっとタオは以前の、「退屈な」日常に戻っていくのだろうと僕には思えてならない。何か明確な理由がない限り、環境を変えたところでその人の根本的な考え方とか生活パターンとか趣味嗜好はあまり変わらない。

 

いま僕の大学時代を振り返ってみると、あのとき海外留学に行っても行かなくても結局はどっちでもよかったんじゃないかと思う。どっちでもよかったというと少し語弊があるけど、つまりは海外留学に行く選択をしてもしなくても、本質的な「自分らしさ」という部分には大した影響はなかったんじゃないかということである。それよりも、あのとき夢中になって過ごしてきたバイト先での日々の方がよっぽど今の自分の形作っている実感がある。

 

だから、タオもとりあえず何かに打ち込めばよかったんじゃないかと思うのである。ダンスをいま以上に極めようとしたり、休みの日に恋人と旅行に行きまくったり、料理にめちゃくちゃ凝ったり。いや、それをする気になれないから悩んでるんだよ!ってところなんだろうけど、結局は今できることにコミットし続けることでしかその人の根っこの部分とか根本的な思考パターンってやっぱり変わらないんじゃないか。『世界』を観ると、大学時代の自分を思い出す。毎日に退屈していて、そんな「いま」を受け入れられなかった、あのときの自分を。

 

いつか行ってみたい国、モロッコについてのメモ | 大竹伸朗『カスバの男 モロッコ旅日記』

ロッコ北部タンジールから車で1時間のところにアシラという小さなビーチタウンがある。画家、大竹伸朗の『カスバの男 モロッコ旅日記』にはアシラの町について次のように記されている。

建物のほとんどは真っ白で床や壁にモザイク。白い路地の壁に見かける壁画が光に満ちて輝く。毎年、街が世界各地のアーティストをよび、滞在させ壁画を描かせるらしい。

あまり長くとどまることはできなかったが、もう少しゆっくりいて物を見、感じたかった場所だった。おそらくここではたくさんのものを見落とした気がしてならない。

本の中でアシラについて触れられているのはわずか2ページほどだ。そこはモロッコの他の都市に比べても穏やかな場所らしい。大竹さんもタンジールから日帰りで遊びに行っただけらしいが、小さな港町アシラには何か惹きつけるものがあるに違いない。僕も人生のどこかで行ってみたいと思った。

 

www.travel.co.jp

 

 

「世界中旅行したけど、客引きが酷すぎて最悪の場所だった」。いつの日だったか、休暇を使ってモロッコに行きたいと考えていると話した知り合いから返ってきた言葉が、それだった。たしかに僕はモロッコに対して幻想を抱いているのかもしれない。どの旅行記事に描かれている彼の地のイメージはどれも鮮やかで、いかにも魅惑的であった。だから知り合いによる突然のモロッコ批難が始まったときはやはり怖気づいてしまったことは事実である。コロナの影響もあり、僕はいまだにモロッコには行けていない。

 

とはいえ、旅に綺麗事だけを求めるのは御門違いである。異国は楽園ではない。そこにはその土地独自のリアリティがただただ横たわっているだけなのだ。

本書には、モロッコに思わずいきたくなってしまうような、すてきなエピソードも美辞麗句もない。多くの人に親切にされたなんてこともないどころか、金、金、ガイド、ガイドとまとわりつく男たちの姿が、こちらもうんざりするぐらい出てくるし、モノクロ写真が映し出すのは、崩れたゴミ箱だったり、路上の割れた卵だったりする。少なくとも、モロッコってこの世の天国かも、なんて感想は抱かない。(解説:角田光代)

『カスバの男』に描かれるモロッコの情景はひたすらにリアルである。汚いことも、綺麗なこともありのまま。だからこそ余計に行きたくなってしまう、異国のもつ不可思議な引力を感じてならない。いつか彼の地に降り立ったとき僕は何を感じ、何を考えるのだろうか。

 

 

弱くても卑怯でも大丈夫。 | 大江健三郎『個人的な体験』

大江健三郎『個人的な体験』は、筆者自身の体験に基づいて書かれた小説である。大江の長男である大江光は脳ヘルニアを患って生まれてきた。そして、誕生後まもなく大江はこの作品を書き上げることになる。

 

 

主人公は脳ヘルニアを患う子どもの誕生に大いに振り回されてしまう。彼にとって障がいを持った子どもの誕生は、彼の夢であるアフリカ旅行の実現を妨げる何者でもない。

あなたは私のことも赤んぼうのことも、本気になって考えたことはないんじゃないの?鳥(バード)。あなたが本気になって考えているのは、自分自身についてだけなのじゃない?

主人公"鳥(バード)"は精神的に未熟な存在として描かれる。障がい児の親となる責任から逃避しようとする彼は葛藤の末、医師を介して間接的に自分の子どもを殺害することを決意する。彼のアフリカ旅行の夢は手の届くところまで迫っていた。

が、突然主人公は心変わりをする。医師から子どもを取り返し責任を持って育てるというのだ。

子どもを取り返した”鳥”を唐突なハッピーエンドが包み込む。

 

 

たしかにクライマックスの主人公の変わりようは解せない。この最後の結末に関して発表当時も批判の嵐だったらしい。それはそうである。僕自身読んでいて”鳥”はどうやって弱い自分と折り合いをつけるのか、その顛末に非常に興味を惹かれていたからだ。むしろその顛末が知りたくて、どうやって主人公が葛藤を乗り越えるのか(もしくは乗り越えないか)を期待していた。その期待はあっさりと裏切られてしまうことになる。

 

とはいえ、大江が本作を無理矢理にでもハッピーエンドにしたことには必ず理由があるはずなのだ。それはつまり、どんなに卑屈になってもどんなに逃げ出そうとしても「自分」は見ているということである。真っ当に生きようと葛藤を続けている。それが人間であり、弱さや葛藤を抱えながらでも生きる一つの希望なのかもしれない。